スタッフ紹介

総院長・院長 柔道整復師
河原 龍秀

好きなスポーツ | 柔道(六段)、ゴルフ |
---|---|
好きな食べ物 | カレー、ステーキ、ラーメン |
施療の心がけ | 丁寧さ |
好きな言葉 | 自他共栄(自分も他人も共に栄える意) |
業歴 | 23年目 |

副院長 柔道整復師
中村 正夫
こんにちは、柔道整復師の中村です。
私は岐阜県の山県市(やまがたし)という所の出身です。字のとおり山に囲まれた田舎ですが、自然が豊かで私が一番安らげる故郷です。今は柔道整復師としての活躍のフィールドを求め愛知県にやってきました。
私は、父は介護系、母は保育士という家系で育ち、小さい頃から親の姿を見てきたので、人に携わることに関してなにか縁を感じていたような気がします。
小さい頃から体を動かすことが好きで、小学校の頃は野球、高校、大学ではテニスを経験してきました。柔道整復師を志そうと通った米田柔整専門学校では、この道の由来である柔道を始め、学生中に初段を取得しました。昔から負けず嫌いな性格で、今もそれが自分の原動力の一つになっています。
柔道整復師を志したのは、私が当時体を痛めて、接骨院によく通っていた時期があり、そこで柔道整復師の姿に魅せられた時からでした。体の痛みだけでなく、その痛みに対する不安感を理解してもらい、そこで自分の体と気持ちが楽になっていく感覚を知りました。
また、他のお客様たちが接骨院に来て、活き活きとなって帰っていく姿をみて、自分もあんなふうに人が苦しんでいる痛みを治し、笑顔になってもらえるようになりたいという思いに駆られ、当時思い切ってサラリーマンを退職し、新たな道に挑戦することにしました。
総院長の河原先生とは母校である米田柔整専門学校で出会い、また柔道を通しての交流もあり、先生のいつもエネルギッシュな姿に大変興味がありました。また、先生の考える「社会における柔道整復師としての役割」に対し強く共感し、当院への就職を決めました。
当院は体の患部だけをみるのではなく、お客様の根本的な痛みの解消のため体全身をみていく施療方針があります。本当の痛みの原因は、患部以外の箇所にあることは往々にしてあり、それを取り除いていく施療が当院にはあります。
一人でも多くの方に笑顔になってもらえるように、お客様一人一人の気持ちに寄り添い、また、安心して施術を受けてもらえるよう、些細な事にも耳を傾け、お客様の声を見逃さないよう丁寧な施術を心がけていきます。
どうぞよろしくお願いいたします。
私は岐阜県の山県市(やまがたし)という所の出身です。字のとおり山に囲まれた田舎ですが、自然が豊かで私が一番安らげる故郷です。今は柔道整復師としての活躍のフィールドを求め愛知県にやってきました。
私は、父は介護系、母は保育士という家系で育ち、小さい頃から親の姿を見てきたので、人に携わることに関してなにか縁を感じていたような気がします。
小さい頃から体を動かすことが好きで、小学校の頃は野球、高校、大学ではテニスを経験してきました。柔道整復師を志そうと通った米田柔整専門学校では、この道の由来である柔道を始め、学生中に初段を取得しました。昔から負けず嫌いな性格で、今もそれが自分の原動力の一つになっています。
柔道整復師を志したのは、私が当時体を痛めて、接骨院によく通っていた時期があり、そこで柔道整復師の姿に魅せられた時からでした。体の痛みだけでなく、その痛みに対する不安感を理解してもらい、そこで自分の体と気持ちが楽になっていく感覚を知りました。
また、他のお客様たちが接骨院に来て、活き活きとなって帰っていく姿をみて、自分もあんなふうに人が苦しんでいる痛みを治し、笑顔になってもらえるようになりたいという思いに駆られ、当時思い切ってサラリーマンを退職し、新たな道に挑戦することにしました。
総院長の河原先生とは母校である米田柔整専門学校で出会い、また柔道を通しての交流もあり、先生のいつもエネルギッシュな姿に大変興味がありました。また、先生の考える「社会における柔道整復師としての役割」に対し強く共感し、当院への就職を決めました。
当院は体の患部だけをみるのではなく、お客様の根本的な痛みの解消のため体全身をみていく施療方針があります。本当の痛みの原因は、患部以外の箇所にあることは往々にしてあり、それを取り除いていく施療が当院にはあります。
一人でも多くの方に笑顔になってもらえるように、お客様一人一人の気持ちに寄り添い、また、安心して施術を受けてもらえるよう、些細な事にも耳を傾け、お客様の声を見逃さないよう丁寧な施術を心がけていきます。
どうぞよろしくお願いいたします。

好きなスポーツ | 釣り、柔道、テニス、アウトドア |
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好きな食べ物 | 肉 |
施療の心がけ | お客様の声を大切にする |
好きな言葉 | 挑戦 |
業歴 | 5年目 |

副院長 柔道整復師
末武 真生
こんにちは。柔道整復師の末武です。
「郡上おどり」で有名な岐阜県郡上市出身の27歳です!
私は小学生から高校生まで野球少年でした。ピッチャーをやっていたこともあり、肩の故障も度々ありましたがその都度、接骨院で先生に施療していただいたことで高校まで全力で野球に打ち込むことができました。
高校卒業後は就職し、製造業や建築業を経験しました。そして仕事をしながら草野球チームに所属して野球も続けていました。しかし、肩を痛め全力で投げられないほどの激痛を感じ、お世話になっていた接骨院に通うようになりました。
痛みのためプレーが出来なくなり、野球自体が嫌いになりかけていた自分に親身に接して頂き根気よく施療をしてくださったおかげでまた投げられるようになりました。
そして、何度も何度も接骨院に通うことで柔道整復師の仕事に興味を持ち、自分も痛みに苦しむ方の力になりたいと柔道整復師を志すことに決めました。
仕事を退職して米田柔整専門学校へ入学。解剖学や生理学など専門的な知識の学習は難しく理解することが大変でしたが、毎日が新鮮でした。そして卒業し国家試験も合格することができました。
当院へ就職したのは、総院長河原先生の柔道整復師という職業に対する想いや、施療方針に感銘を受けたと同時に、当院の雰囲気や全身に触れて体の状態を把握してから行う整復施療、何よりもお客様が満足して帰っていく姿に、ここで自分の能力を発揮したいと思い就職を決めました。
スポーツでの怪我以外にも日常生活を過ごしていく上でのちょっとした動作で体の不調を感じ、痛みを抱えながら過ごしている方が多いとおもいます。その痛みに親身になって施療を行っていける所が接骨院としての強みだと思います。
お客様一人一人の訴える痛みや思いを受け止め、施療を行っていくことでお客様が笑顔で帰ってもらえるように全力を尽くします。
よろしくお願いします。
「郡上おどり」で有名な岐阜県郡上市出身の27歳です!
私は小学生から高校生まで野球少年でした。ピッチャーをやっていたこともあり、肩の故障も度々ありましたがその都度、接骨院で先生に施療していただいたことで高校まで全力で野球に打ち込むことができました。
高校卒業後は就職し、製造業や建築業を経験しました。そして仕事をしながら草野球チームに所属して野球も続けていました。しかし、肩を痛め全力で投げられないほどの激痛を感じ、お世話になっていた接骨院に通うようになりました。
痛みのためプレーが出来なくなり、野球自体が嫌いになりかけていた自分に親身に接して頂き根気よく施療をしてくださったおかげでまた投げられるようになりました。
そして、何度も何度も接骨院に通うことで柔道整復師の仕事に興味を持ち、自分も痛みに苦しむ方の力になりたいと柔道整復師を志すことに決めました。
仕事を退職して米田柔整専門学校へ入学。解剖学や生理学など専門的な知識の学習は難しく理解することが大変でしたが、毎日が新鮮でした。そして卒業し国家試験も合格することができました。
当院へ就職したのは、総院長河原先生の柔道整復師という職業に対する想いや、施療方針に感銘を受けたと同時に、当院の雰囲気や全身に触れて体の状態を把握してから行う整復施療、何よりもお客様が満足して帰っていく姿に、ここで自分の能力を発揮したいと思い就職を決めました。
スポーツでの怪我以外にも日常生活を過ごしていく上でのちょっとした動作で体の不調を感じ、痛みを抱えながら過ごしている方が多いとおもいます。その痛みに親身になって施療を行っていける所が接骨院としての強みだと思います。
お客様一人一人の訴える痛みや思いを受け止め、施療を行っていくことでお客様が笑顔で帰ってもらえるように全力を尽くします。
よろしくお願いします。

好きなスポーツ | 野球 |
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好きな食べ物 | 焼肉、寿司 |
施療の心がけ | 笑顔、挨拶 |
好きな言葉 | 幸せは自分の心が決める |
業歴 | 5年目 |

柔道整復師
森本 哲博
こんにちは、柔道整復師の森本哲博です。
名古屋の生まれで、幼い頃から双子の弟と活発に仲の良い友達のように遊ぶ子供でした。
小学校では野球に打ち込んでいましたが、中学生の時にプロテニスプレーヤーに憧れてテニスを始めました。まだ体が造られていないのにダイナミックなフォームをお手本にしていたので体がついていけず重度の腰痛になってしまいました。
練習量が増えて高校二年生の時にとうとうプレーが出来ない状態になって、椅子に座るのも辛く学業にも支障が出てきてしまい、しばらく休まざるを得なくなってしまいました。
筋トレやプールでリハビリに励みましたが、その時にはまたコートに立てるのだろうかと思い悩む辛い毎日でした。
そんな状態でも接骨院や鍼灸院に通うことで先生方の力と励ましのお陰で半年後、嘘のように体が痛みから解放されていきました。
ああ、またテニスが出来るんだ!! と光が差してきたのをよく覚えています。
その通っている時にあらゆる症状の方が良くなっていくことにとても関心を持ちました。
私は部活や勉強に支障が出ましたが、仕事や生活をしていくことに支障がある方はもっと大変な思いをしているだろうと考えるようになり、そのような方の力になりたいと強く思うようになりました。
将来はそのような方の一番近い存在になって自分の手で良くしたいという思いで鍼灸師と柔道整復師を目指すことにしました。
高校卒業後日本で一番歴史のある鹿児島鍼灸専門学校を卒業して鍼灸師の国家資格を取得して鍼灸接骨院の現場に立ちました。
桜島や霧島の自然豊かな環境が好きで鹿児島で15年間鍼灸接骨院の分院長としても患者さんに向きあってきました。
スポーツ障害、関節痛、筋肉の痛み、神経痛、頭痛など重い症状の方も鍼と手技を使い改善して大変喜ばれました。
また更なるステップアップの為、地元名古屋に戻り米田柔整専門学校に入学して最新の医療を学び、柔道整復師の国家資格も取得しました。
在学中に総院長の河原先生のセミナーに参加してお話を聞いたり、勉強会でご一緒させていただいたりして、患者さんやスタッフの方との向き合い方が何て素晴らしいのだと感銘を受けて、同じ現場で治療にあたりたいと思い当院への就職を決意しました。
来てくださる患者さんは痛みなど不快な症状だけでなく、誰しも精神的な辛い部分も抱えています。それだけでなく、良くなった先にはこうなりたいという願望があると思います。
その思いに一緒に上を向いて、再び元気を取り戻せるように精一杯させていただきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。
名古屋の生まれで、幼い頃から双子の弟と活発に仲の良い友達のように遊ぶ子供でした。
小学校では野球に打ち込んでいましたが、中学生の時にプロテニスプレーヤーに憧れてテニスを始めました。まだ体が造られていないのにダイナミックなフォームをお手本にしていたので体がついていけず重度の腰痛になってしまいました。
練習量が増えて高校二年生の時にとうとうプレーが出来ない状態になって、椅子に座るのも辛く学業にも支障が出てきてしまい、しばらく休まざるを得なくなってしまいました。
筋トレやプールでリハビリに励みましたが、その時にはまたコートに立てるのだろうかと思い悩む辛い毎日でした。
そんな状態でも接骨院や鍼灸院に通うことで先生方の力と励ましのお陰で半年後、嘘のように体が痛みから解放されていきました。
ああ、またテニスが出来るんだ!! と光が差してきたのをよく覚えています。
その通っている時にあらゆる症状の方が良くなっていくことにとても関心を持ちました。
私は部活や勉強に支障が出ましたが、仕事や生活をしていくことに支障がある方はもっと大変な思いをしているだろうと考えるようになり、そのような方の力になりたいと強く思うようになりました。
将来はそのような方の一番近い存在になって自分の手で良くしたいという思いで鍼灸師と柔道整復師を目指すことにしました。
高校卒業後日本で一番歴史のある鹿児島鍼灸専門学校を卒業して鍼灸師の国家資格を取得して鍼灸接骨院の現場に立ちました。
桜島や霧島の自然豊かな環境が好きで鹿児島で15年間鍼灸接骨院の分院長としても患者さんに向きあってきました。
スポーツ障害、関節痛、筋肉の痛み、神経痛、頭痛など重い症状の方も鍼と手技を使い改善して大変喜ばれました。
また更なるステップアップの為、地元名古屋に戻り米田柔整専門学校に入学して最新の医療を学び、柔道整復師の国家資格も取得しました。
在学中に総院長の河原先生のセミナーに参加してお話を聞いたり、勉強会でご一緒させていただいたりして、患者さんやスタッフの方との向き合い方が何て素晴らしいのだと感銘を受けて、同じ現場で治療にあたりたいと思い当院への就職を決意しました。
来てくださる患者さんは痛みなど不快な症状だけでなく、誰しも精神的な辛い部分も抱えています。それだけでなく、良くなった先にはこうなりたいという願望があると思います。
その思いに一緒に上を向いて、再び元気を取り戻せるように精一杯させていただきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。

好きなスポーツ | テニス、サッカー |
---|---|
好きな食べ物 | 魚なら何でも! |
施療上の心がけ | しっかりお話を聞くこと |
好きな言葉 | 好きこそものの上手なれ |
業歴 | 17年目 |

柔道整復師
吉田(寺田)シュリ
こんにちは!柔道整復師の吉田(寺田)シュリです。
2014年までスキーハーフパイプ競技の日本代表選手としてワールドカップを転戦していました。 選手時代は怪我が多く、膝の手術を3度経験しました。術後は力が入らず足が動かない状態になりましたが、リハビリを繰り返し、その度にまた選手に復帰する事ができました。
その過程で人間の回復力の素晴らしさ、人体の仕組みの面白さを体感しました。 勿論、それも勝手に治ったわけではなく、指導してくれる方がいて、その方のアドバイスやサポートを受けた事で頑張ることができました。 頼れる人がいるという安心感も大きかったです。
その様な経験から、引退後はサポートする側になりたいと思うようになりました。 これまでは自ら選手として身体と向き合い、技術向上の為、怪我防止の為、その他にも様々なトレーニングを行ってきました。 怪我が多く、痛みや悔しさも味わってきました。 そんな私だからこそ伝えられる事、わかってあげられる痛み、辛さがあると考えています。
専門学校時代は学ばなければならない事の多さに驚きました。 柔道整復師とはこんなにも幅広い知識が必要なのかと。全てを修得するのは本当に大変でした。 ですがこうしていざ現場に出てみると、これまで点だったものが線となり、学生時代に得たものがいかに重要だったかを日々実感しています。
卒業後は学生時代の教員でもあった河原先生の接骨院への就職を希望、決め手は常にポジティブで前向きな先生の朗らかな人柄です。手技や施療の進め方など、気になることは何でも相談でき、柔道整復師として確実に成長できると感じました。 お客様の痛みや動けない辛さ、不安などを少しでも軽減できるよう、そしてまた、本来の自己治癒力を最大限発揮させられるよう、しっかりと寄り添っていける柔道整復師で在りたいと思います。 よろしくお願いします。
2014年までスキーハーフパイプ競技の日本代表選手としてワールドカップを転戦していました。 選手時代は怪我が多く、膝の手術を3度経験しました。術後は力が入らず足が動かない状態になりましたが、リハビリを繰り返し、その度にまた選手に復帰する事ができました。
その過程で人間の回復力の素晴らしさ、人体の仕組みの面白さを体感しました。 勿論、それも勝手に治ったわけではなく、指導してくれる方がいて、その方のアドバイスやサポートを受けた事で頑張ることができました。 頼れる人がいるという安心感も大きかったです。
その様な経験から、引退後はサポートする側になりたいと思うようになりました。 これまでは自ら選手として身体と向き合い、技術向上の為、怪我防止の為、その他にも様々なトレーニングを行ってきました。 怪我が多く、痛みや悔しさも味わってきました。 そんな私だからこそ伝えられる事、わかってあげられる痛み、辛さがあると考えています。
専門学校時代は学ばなければならない事の多さに驚きました。 柔道整復師とはこんなにも幅広い知識が必要なのかと。全てを修得するのは本当に大変でした。 ですがこうしていざ現場に出てみると、これまで点だったものが線となり、学生時代に得たものがいかに重要だったかを日々実感しています。
卒業後は学生時代の教員でもあった河原先生の接骨院への就職を希望、決め手は常にポジティブで前向きな先生の朗らかな人柄です。手技や施療の進め方など、気になることは何でも相談でき、柔道整復師として確実に成長できると感じました。 お客様の痛みや動けない辛さ、不安などを少しでも軽減できるよう、そしてまた、本来の自己治癒力を最大限発揮させられるよう、しっかりと寄り添っていける柔道整復師で在りたいと思います。 よろしくお願いします。

好きなスポーツ | スキー、トランポリン、シュノーケリング |
---|---|
好きな食べ物 | お寿司、焼肉 |
施療の心がけ | お客様の不安を取り除きたい |
好きな言葉 | 思うは招く |
業歴 | 5年目 |
柔道家・柔道整復師になるために
生まれてきました。
はじめまして、総院長の河原です。
当ホームページを訪れていただき、誠にありがとうございます。
私は祖父が柔道家で柔道整復師、父が柔道家(幻のモスクワ五輪代表)、母が柔道整復師の家系の長男として生まれました。
幼い頃は、体が弱く、いつも両親に心配をかけている子どもでした。
季節の変わり目には必ずといっていいほど風邪をひき、小児科の通院の常連。しかも小児ぜんそくを患っていたので、吸入器は手放せないほどお世話になっていました。
そんな私も幼稚園の年長に入った頃から実家にあった柔道場(河原道場)で柔道を始め、次第に体が強くなっていきました。中学生の頃には父の厳しい指導のもと初段を取得。高校生では参段にまでなり、自信を深めていったものです。
大学は父の母校ということで当時、日本一であった明治大学へ進学。右をみても左をみても全日本や世界、オリンピック金メダリストなどが顔を揃え、しのぎを削っていました。私などの名古屋の田舎者は最初、全く歯が立たない始末。
しかし、人の環境適応とはおもしろいもので、3年生からは全日本学生柔道優勝大会(団体戦)の選手メンバーに入れるようになり、4年生では寮長としても生活面から後輩の面倒をみるようになり、いつしか主将、副主将と共に部をまとめる存在になっていました。
そんな私でしたが、稽古での無理が祟ったのか卒業時にはケガで満身創痍の体となっていました。そこでこれ以上の柔道生活を断念。しかし、何とかこの経験を活かせないものかと考えた結果、親の勧めもあり、ケガや痛みを手当する側の柔道整復師を志しました。
それまで柔道ばかりしていたので、専門学校時代の勉強は苦労しましたが、運良く周囲の優秀な友人に恵まれていたので、一緒に勉強して国家試験はストレートで合格。そして何よりもクラス全員で合格を手にしたのが嬉しかったなぁ。当時、級長なんかもやっていましたから。
柔道整復師になってからも大変でした。研修時代は朝から晩まで働きづめ。朝は開院準備、施術、昼休みに勉強会、午後の施術、片付け、そして自主的に施術のトレーニング。そんな毎日を過ごしましたが、やりたい仕事をやれている実感と柔道で養われていた精神力のおかげで、人が苦と思うことも苦と思わないようになり、いつしかそれを楽しむことも身につけていきました。
研修期間を終え、いざ開業しようと考えていた頃、母校の米田柔整専門学校に「教鞭をとってみないか」と誘われ、迷いましたが、これも何かの思し召し。「今しかできないこと」と思い受諾。教育者として後進の指導に当たりました。
教員時代は楽しかったなぁ。とても感じのいい、やる気のある学生たちに恵まれ、毎日が忙しくも充実した日々でした。この教員時代の10年間はわが人生の春を謳歌したものです。
しかしながら、そんな春はいつまでも続かないものです。自分の心の中で押さえつけていた熱い気持ちが燃え上がったのです。
「私は柔道家・柔道整復師になるために生まれてきた」
そんな強い衝動に駆られ、接骨院の現場でお客様に施術することが柔道整復師の本分と考え、また柔道家としては柔道教室を興し、子どもたちに柔道指導することを使命に感じた私は平成25年5月に中川区高畑に「高畑駅前接骨院」と「河原道場高畑キッズ柔道教室」を開設、次第にお客様が増え、一接骨院では見きれないほどの人が来られるようになり、柔道教室も地域の方々に支えられ、子どもたちもたくさん集まってくれました。*柔道教室は高畑でみれる人数を超過したため、令和元年4月より安全面の配慮から実家で南区にある創設67年目の「河原道場」へ移転して「高畑」と「本家」を一本化し、同時に父より道場主を引き継ぎました。(祖父から数えて三代目)
そういった経緯を経て、平成29年11月に熱田区三本松の名鉄神宮前駅東口徒歩すぐのところに「神宮前駅東口接骨院」を開院しました。
私は柔道家として、柔道整復師としての仕事に、強い使命感と深い誇りを持っています。施術家歴22年以上の施術力とプロを15000人以上、育ててきた指導力で「高畑駅前接骨院」にご縁を持った皆さまの施術にスタッフ共々あたります。元気に、活力ある毎日を提供したいと思っています。
どうぞ、よろしくお願いいたします。